江差は、かもめ島に落ちる夕日と流れる江差追分がぴったりする町である。冬は「たば風」も強い。

松前大島が左手にかすかに見え、奥尻島が右手にありちょうどその間に太陽が沈む。五勝手漁港にて。

立岩付近からかもめ島方向を見る。

レストラン津花館の近くから、かもめ島方向を見ると引き揚げられ復元された開陽丸も見える。

かもめ島の中央にある瓶子岩(へいしいわ)。今から500年ほど前、文安4年(1447年)頃、江差の地に天変地異を予言する折居という老婆がいて、飢饉の時、一人の老人から渡された瓶(つぼ)を海に投げたところニシンが押し寄せ、その瓶が石と化し瓶子岩となり、その老婆が住んでいた庵に残されていた神像を折居様と祭ったのが姥神神宮と言われています。

中歌町方向を江差市街地に行く途中の急な坂から見たところです。江差町庁舎の左に江差追分会館、隣に、レストラン江差家があります。鰊ソバが有名ですが、地鶏のかしわそばもうまい。左には姥神神社があり、毎年8月9日から3日間ほで山車が出て賑やかな祭りが繰り広げられます。なお、明治3年創業で江差名物の円柱の筒に入った五勝手屋羊羹は、北海道ではじめて小豆を実らせれるのに成功したところから始まっています。

開陽丸は、オランダで製造された木造機帆走軍艦で、慶応4年(1868年)新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争が勃発し、幕府海軍副総裁・榎本武揚は、幕府の敗退により、「蝦夷共和国」により徳川家再興を図ろうと、開陽丸ら8隻を率いて品川沖を脱出。途中、土方歳三らと合流し、蝦夷地へと攻め込みました。榎本率いる旧幕府軍は箱館五稜郭を占領後、松前藩最後の防衛線である江差への攻撃をもくろみ、開陽丸で江差沖へと進みましたが、明治元年11月15日、暴風雨のため座礁。その10数日後、開陽丸は沈没した。江差を占領したものの、開陽丸を失った榎本軍はしだいに敗色を濃くしていき、翌年(1869年)4月乙部町に上陸した新政府軍と戦火を交えつつ箱館に追いつめられ、五稜郭にたてこもって抗戦しましたが、むなしく降伏し、ここに戊辰戦争は終結しました。
開陽丸は昭和50年(1975年)から調査、発掘され復元されました。
江差の人の気質には、800年の歴史をもつ落ち着つきと、江戸にもなかった5月の華やかさ(かつてニシン漁と北前船で栄えた)とこの繁次郎に代表されるユーモアでどん底の生活でも明るさを保ちつづけたたくましさがあります。
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江差追分本唄

かもめの鳴く音に
ふとめをさまし
あれがエゾ地の
山かいな